Monologue 2004

 スポーツの祭典の楽しみ方
Aug.19.2004

殊の外暑いこの夏だが、せめて頭の中だけでもクールにいきたいと思い、工場で流す音楽はモダンジャズと相場は決まっていたものだが、このところは一転して灼熱の大陸アフリカ音楽を流しバオバブの樹の下でジェンベの響きに身を任せるといった趣向に染まっている。
ユッスー・ンドゥール(全アフリカを代表するセネガルのポップミュージシャン)の「Nothing's in Vain」はご機嫌だ。
ジャケットを見ると、埃っぽい街はずれのの路地で少年がサッカーに興じている画像だ。クレジットによるとアフガニスタン、カブールでの撮影という。ンドゥール本人もサッカーが好きなようだが、むしろセネガル在住のムスリムとして9/11WTC後のアフガンの少年たちが置かれた境遇を示す暗喩であり、またサッカーに興じる少年の姿に明るい未来というものを提示したかったのか。
ところで彼はこのアルバムをひっさげて昨年3月から全米38公演を予定していたが、急きょ中止した。どれほどの収益減になるかは知らないが、理由のほうは明白。ブッシュ米国のイラク先制攻撃への抗議を示したものだ。(ジャケット写真クリックすると公式サイトへジャンプ←試聴可)

この夏はアテネオリンピックということでなお熱気が渦巻いている。個人的にはサッカーが予選敗退してしまったことが残念だ。期待せねばならない競技としては陸上100m走、末続慎吾の活躍だ。ぜひファイナリストに残って欲しい。ファイナリストになるなどかつての日本人ではとても望めないものだったが、今回ばかりは少し様子が異なり期待できるに十分な資質と実績をひっさげてのものだ。
かつて短距離陸上ではベン・ジョンソン、フローレンス・ジョイナー、などすばらしいアスリートたちが記録をうちたてていったが、一方でこの競技者には常にドーピングのうわさが絶えなかったし、また事実、記録剥奪、出場停止の処分をくらった者も少なからずいた。
今やデジタル時計、写真で1/100秒を争う時代であり、人間の所与の体力の限界を超えたところでの肉体的酷使をともなったトレーニング方法と、さらにはさまざまな違法なステロイドを用いサイボーグまがいの肉体改造で、0.01秒の時間短縮をねらうといった時代なのだ。
高野進をコーチとする末続慎吾はそうした薬物にまみれた競技者ではないと信じるし、アフリカ系米国人とは明らかに肉体的資質の劣る日本人として、肉体の鍛錬だけではない、科学的鍛錬、練習法を通して鍛え抜いた走法で、どこまで勝ち残れるのか大いに興味深いところだ。

今回のオリンピックは主催都市がアテネだ。近代オリンピックの創始者として名高いクーベルタンが提唱、主導して1896年に始まったことはつとに知られたことだが、昨今のオリンピックを見て彼はどのような感想を抱くであろうか。
その規模の拡大、競技種目の拡大、全ての競技における記録の伸張、クーベルタン生前の記録フィルムには恐らくは牧歌的な競技風景が遺されていることだろう。さらに特徴的なことは女性の進出だ。近代オリンピック創始の頃は欧州中心主義であったことは良く知られたことだが、同様に白人男性のものという制約下にあったことは知っておかねばならない。

こうしたアナクロ的な思想で始まったオリンピックではあったが、どうだろう、アフリカ大陸のどこに位置していたのかも忘れてしまったような小国の競技者が勝利者として躍り出たり、身近なところでは日本からの競技参加者は女性のほうが多いという現実もまた決して驚くに値しない変容ぶりのひとつだ。

女性競技者のひきしまった肉体と、最大限の力が発揮される瞬発的な競技で見せる恍惚とした相貌はある種のエロティシズムさえ感じさせる。
ブラックアフリカの競技者の超然とした走りは時に西欧人が遠く昔に失ってきた健康的な人間本来の肉体的美を感じさせる。
ここには世界に支配的な政治的、経済的価値概念とは全く異質の評価が可能となっているのだ。人種、性差を越えたところで元来クーベルタンが提唱した健康な肉体と健全な精神が息づいていることには、皮肉といってかたづけられないスポーツの世界に留まらない現代社会の歪みを見ることができよう。

さてオリンピックに代表される世界的レベルのスポーツ大会はメディアの力なくしては語れない。いやむしろスポーツを語るのはメディアそのものだ。
今ボクたちはアテネでの競技者の活躍をテレビ、新聞、インターネットなどのメディアを通して見聞きする。日本においてはかの国営放送の代表的なニュース番組は完全にオリンピック情報に占拠されてしまっている。その他にも特別に組まれた番組に多くに時間が割かれ、まさにオリンピック一色だ。政治的、社会的、あるいは国際的事件など全ての事象は後景へと追いやられている。
(ついでに余談だが先の沖縄普天間基地隣接の、沖縄国際大学構内での米軍大型輸送ヘリ墜落事件は悲惨なものだったが、地位協定の壁に阻まれ、現場検証すらやらせてもらえないという屈辱的な事態で怒りが沸騰している。しかし我らが首相は高級ホテルで夏休み、TVオリンピック観戦。日本人勝利者への「感動した ! 」電話はできても、米軍側への抗議、あるいは地位協定見直し協議への指導など全く見えてこない。メディアはといえばオリンピック競技に過剰な関心を示すことはしても、この事件対応にはまるで関心が向かないという歪んだバランス感覚)

米国などではメディアもそれほどオリンピックを注視しているようでもないらしいが、この日本ではそこのけそこのけ、オリンピックが全ての国なのだ。
さらには会場などでここぞとばかりうち振られる日の丸に何か居心地の悪さと、「ちょっと待ってよ」とも言いたくなるおかしさ。
スポーツは団体競技はともかくも、まずは個人の資質での争いではなかったのか。そもそも暴力的な争いに、ルールというものを持ち込み、様式化、形式化したものがスポーツであったはずであり、ネーション、ステートという対外的にはある種の暴力装置でもあるものとは対極にあるはずのものではなかったのだろうか。
メキシコ大会(1968)での陸上競技で優勝したアフリカ系米国人が、表彰台上で黒い皮手袋をして拳を振り上げるポーズで星条旗と国歌に抗議したことは鮮烈な印象を残したが、人種差別への国際的舞台での抗議であったことは言うまでもない。

平和の祭典オリンピック、などという言説を本気で信じているお気楽な人などどこにもいない現代を象徴するのは、アテネ競技会場にパトリオットミサイルが隣接配備されていることをあげることで十分だろう。これが現代オリンピック、そして現代スポーツを取り巻く一方での象徴なのだ。牧歌的にあるいは無邪気にスポーツの快楽を語れるほど自由な社会ではないところにまでボクたちは来てしまっている。

確かに近代オリンピック競技会は国際的な政治的中立性を試みた最初のものであったことは、その期間いかなる紛争も中断することを趣旨としたことに明らかだ。
しかし残念ながら大戦間(第一次世界戦争、第二次世界戦争の間)あたりから国家間の暴力的対立はこの趣旨を度々踏みにじることになっていった。歴史的に見てオリンピックの政治的プロパガンダに最大限利用されたのは1936年(ナチス政権になって3年後)ヒトラー統治下のベルリン大会であった。
これは1本の有名な記録映画フィルムとして残されいているので、確認することができる。

「民族の祭典」から

<レニ・リーフェンシュタール(1902〜2003,享年101歳)>の「民族の祭典(原題:Olympia)」だ。
ここにオリンピック競技のファナティックなまでの政治性と、スポーツ大会の祝祭的、耽美的ともいえる修辞(筋肉美の誇張)を見ることができる。彼女はそれまで既に「意志の勝利(原題:Triumph of the Will)」というナチスのニュルンブルグでの党大会の記録映画を制作し、ヒトラーからの評価も確かなものにしていた。
既にユダヤ人排斥をうたったニュルンベルグ法を成立させていた中にあって、オリンピック競技を国家的宣伝に使おうとしていることへの様々な批判、抗議運動を見事にかわし、ナチスの集団的組織力を動員することで、かつてない規模での開催へとこぎ着けたのだったが、このレニの「民族の祭典」はヒトラーの意志を体現し、単に記録的映画としての評価を越え、ナチス党のプロパガンダのためのメディアとして最大限に利用されたものだった。
この映画こそスポーツとメディアの関係性を象徴的に表したものであり、如何にナチズム批判を声高に叫んでも、今に続くスポーツにおけるメディア手法の原点を見ることができるというのが事実だろう。

さて舞台は大きく変転し、アテネ2004。喜ばしいことに日本選手は各競技で好成績を上げている。選手の活躍に大いに楽しみながらもそれとは離れたところでの社会的、政治的力学を少し考えて見ることも現代人に課せられた命題なのかもしれない。何となれば現代においてメジャースポーツとはTVカメラを通した先に数億という観客が凝視していることが前提になっているからだ。

英国貴族社会のなかから余暇を楽しむものとして誕生したスポーツであったが、オリンピック競技に象徴されるように今やアマチュアリズムの片鱗すら見ることはできないし、米国のプロスポーツ競技者に典型的に見られる莫大な報酬はこれにキャッチアップしようと試みた日本におけるプロ野球界の1リーグ制への移行問題に見られる経営基盤の崩壊にまで腐朽を極めてきている。
今やスポーツは莫大なマーケットとして金と欲望がうずまく極めて現代的な消費社会のターゲットなのだ。選手個人のアスリートとしての研鑽努力と思惑に関係なく、その身体は狭隘なナショナリズムと資本の論理のなかにからめとられていってることを見なければならない。

ピエール・ド・クーベルタンが提唱したスポーツの原点が、彼の思惑からは遠く離れ、カブールの少年の中にこそ見ることができるのかもしれないという皮肉には、あぁ、ボクたちははるかにこんなところまで来てしまったのかという慨嘆で締めくくるしかないのだろうか。

>>期待の陸上100mの日程は21日予選、22日決勝のようです。請う応援。

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