Monologue 2004

 ネット社会の功罪
Jun. 1. 2004

今年の梅雨入りは早くなりそうだ。
確か以前にもこのページで同じようなことを言ったような気もするが、「木工家殺すにゃ刃物は要らぬ。雨の3日も降れば良い・・・」イヤな季節がやってきた。
ふてくされて工場を封鎖したいところだが、そうもいかないから、こうした環境にあまり影響されないようなカテゴリーの仕事をすれば良いのだろう。

この季節になると木工という仕事がつくづく自然有機物を相手としたものであることを知らしめられる。
これを無理やり人間の勝手なタイムテーブルにあわせ作り上げれば、後々大変なしっぺ返しに合うだろう。
本来平滑であるべき面がゆがみ、あるいは剛性を確かなものにするために高い結合度にしたはずのパーツどおしの接合部分は緩み、機能障害に陥るやも知れない。
しばし湿度計とにらめっこの時期を堪え忍ばないといけない。

さて今回のテーマは「ネット社会の功罪」ということで少し考えてみる。(写真は工房脇に咲いたガクアジサイ)

     

イラク人質事件に見る情報化社会の表裏

先のイラク ファルージャでの日本人ボランティア活動家、フォトジャーナリストらの人質事件は様々な問題を投げかけたが、今度は今月末(6月末)の主権委譲へ向けてのカウントダウンが始まるなか、日本人ジャーナリストが殺害されるという悲劇が起きてしまった。
国内ではいち早く政権中枢部からまたもや「自己責任」の大合唱が再燃するなか、遺族の記者会見での「覚悟はしてました」、「主人には何が起きても政府に救助を依頼するな、といわれていた・・・」といったむしろ違和感のある明るさでの気丈な発言は、権力を有するものと、個人の生き様との、実に対照的なスタンスを垣間見ることができた。

さてここでは人質事件に見られるネット社会の功罪について考えてみたい。
ひとつには日本人3人の人質事件の解放にはどうもネット社会の存在が大きく関わっていたらしいということだ。
ファルージャでのこの事件は、その後拘束された人たちの証言などから、かなり具体的な経緯が明らかになりつつある。
拘束したイラク人のグループは米国軍のファルージャへの連日の激しい無差別砲撃(一般民間人を対象として600人を越える死亡者、モスクへの攻撃、結婚式会場への攻撃 etc )への住民自治の自警団的性格の組織であったようだ。
とにかくイラク現地人でない人物は俺たちの土地には一歩も侵入させない、といった防衛トラップに引っかかったのであろう。
拘束後3人の日本人は自分たちが決してイラクへ反感を持っているのではないこと、それまでのイラクの人々への援助の実績などを訴えたようだし、少なくない議論もしたようだ。
そして決定的であったのは聖職者協会の働きかけが大きくこの武装組織に解放へ向けての決断に寄与したようだ。
この聖職者協会の働きかけはアル・ジャジーラという中東きってのTV報道機関の報道姿勢とも相まってこれら武装組織に届いたのであろうけれど、これも実は日本からの多くの人々の救出へ向けてのメール、インターネットを介した働きかけが大きなインパクトを与えたからなのだそうだ。

彼の聖職者協会の責任者のインタビューでも、決して日本政府からの要請で動いたものでないことを明言しているし、これは必ずしも明確になっていないが身代金が支払われたということもないようだ。

全地球レベルでの様々な事件は、以前であれば大手の資本力を持ったメディアの特派員が伝えるものであったし、あるいは個人レベルでの手紙、フリージャーナリストなどの雑誌メディアなどを通してしか知ることができなかったであろう。
しかし今や言語のリテラシー(読み書き能力)があるものの、大手メディアであろうと、一個人であろうと、誰でも全世界を対象として、しかも瞬時に情報を発信し、またこれを受け取る事が可能な時代が訪れているのだ。(ただやはり低開発国でのPCの普及度は全く悪いであろうことを減じて考えねばならないことはいうまでもないのだが)

まさにこの度の事件と解放劇は、こうしたネット社会の存在なくしては語れないものであったことは明らかであろう。

拘束された若いボランティアはそれぞれ独自のサイトを立ち上げ、活動内容の紹介、普及を図っていた。
日本から現地へのネットを介した救援要請は、彼らの活動実体をサイトから調べ上げたり、あるいはファルージャ現地での情勢分析を大手メディアのフィルターに掛けられたもので満足することなく、独自にインターネット新聞、海外メディアサイトなどから入手することで、より生な情報、バイアスの掛かってない情報を取得することでイラクでの米国占領の実体を暴き、これに基づいた独自の判断での救援要請、市民運動の活性化へと繋げていったことで大きな力になり得たのであろう。

     

「自己責任」とパッシング

さてここまではネット社会での表の「功」の部分であるが、日本国内での特に3人が帰還する前後から澎湃と巻きあがった本来被害者であるはずの人質、およびその家族へのパッシングは集団的ヒステリーの様相を呈した。
これは3流ジャーナリズムの世界に留まっていたならば笑い話で済まされたであろうが、何と政権中枢部から発信されたことには驚きを禁じ得なかった。「自己責任」「経費負担」「国民に謝罪しろ・・・」といったとても信じがたい言説の嵐は一気にメディア世界を支配した。

一国のリーダー達が自国国民の生命への侵害に「自己責任」と言い放って、邦人保護の義務を省みず棄民するという、他国から物笑いの種になってしまうような対処にはただただあきれ果ててしまうしかないものだ。
うなだれて帰国した3人の姿を韓国、東亜日報は「手錠をしていないだけで、彼らの様子は海外から移送された犯罪人と変わりがなかった」などと言われてしまう異常な状況だった。

こうして日本国内では国家の名の下で3人の市民の声が封殺され、片や一方武装勢力側は米国追随での自衛隊派兵を強行した日本という国家と市民3人をちゃんと峻別することで、解放に繋げたのだ。

さてこうした経緯を改めて検証するとネット社会の怖ろしい一側面を見せつけてくれていたことが分かってくる。
どういう事かというと、この異常な状況はY新聞の社説から始まり、翌日政府当局者がこれを受ける形で「自己責任論」を開陳、蔓延させていったようであるが、実はこれもネットでの2ちゃんねるなどの掲示板に氾濫した無責任極まる書き込みに新聞論説が後追いした形を取ったようなのだ。
匿名性に胡座をかいたお気軽な言論は悪いことにそのほとんどが体制翼賛の性格を帯び、こうしたフレームからはみ出る者達を血祭りに上げようと虎視眈々とねらっている。

こうした内容はそのほとんどが論理的省察を排除し、情緒的、感情的手法で書き込まれる。学者、思想家などの高邁な言説に触れることで自分の価値観を形成、発信するのではなく、むしろ根拠があいまいで二次的情報に依った攻撃材料を探し出しては情緒的訴求で攻撃するといった通俗的な手法が実は多くの人の心を捉え共感を形成するということになっているのだ。

     

ネット社会における情報リテラシーの強化

ネット社会におけるこのような相反する情報の使われ方は、つまりは個人レベルでの情報取得能力と、個々の情報を解読、編集する能力によって如何様にも料理され得るということである。
結局はIT社会特有のネット情報でのリテラシーも旧いメディアの新聞などと同様にメディアの情報をそのまま無批判に受け入れることで同調するのではなく、批評精神を持ち、様々な視点からの情報を取得し、あるいはフィルターに掛け、吟味する能力が必要となるのだ。

ただやはりネット社会のもたらしたメディアの変革は画期的なものとみるべきだろう。
IT社会にあってはこれまで大手のメディア(いわゆる広告を経営基盤とした商業メディア)からの情報にすがるしかなかった人々が、比較的低コストの投資でPC導入、ネット接続構築で、実に様々な星の数ほどのウェッブサイトを訪れ、かつては考えられもしなかった極私的言論に分け入ることも可能な時代になっている。
これは大手メディアが決して取り上げることのなかった被抑圧者、少数意見者などの情報に触れることをも可能にしてくれているということにおいては、実に革命的ともいえるメディア変革の時代の訪れと見るべきなのであろうと思う。

人質事件と解放への背景に見られる多くの人々のネットを介した救援は、このようなネット社会の有益性を見事に使いこなしたものであったが、ただやはり残念なことに、まだまだこうした有益な情報を取得できる環境を整備されていない人々、あるいは環境構築はあるものの、積極的に意志を持ってアプローチすることなく、簡便で、安易で、情緒的な情報で事足れりとする人々が多いということも教えてくれた。
ぜひこのネット社会に無批判に埋没することなく、社会と自己との豊かな関係性を作るため「情報リテラシー」を強化していきたいものだ

「情報リテラシー」について
情報化の進展にともない必要性が高まる、(1)パソコン(PC)などの情報通信機器を操作する能力、(2)コンピューターソフトやコンピューターネットワークで提供されるさまざまなサービスを自在に活用できる能力、(3)情報に関する制度などについての知識、倫理など、情報化社会に適応するための基礎的な能力(『imidas2003』による)

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