Monologue 2004

 Apple社経営理念と木工家(その2)
Oct.24.2004

台風22号はここ数十年間の気象記録の中でも最大級の猛威で日本列島、太平洋側沿岸地域を襲っていきました。
当地静岡でも伊豆地域を中心に大きな被害を被っています。
ボクの地域でも直撃は免れたものの、突風と大雨に見舞われ、材料倉庫の屋根の一部が損壊してしまいました。これは通常太平洋側においては南西からの雨風になるところが、台風の通過コースによって北東からの風になり、普段あまり気に留めなかった脆弱個所から強風が舞い込み屋根を破損していったということです。
その後も台風一過とはいかず、濡れた材料を乾かす環境がなかなか戻ってはくれませんでした。
やっと数日前から上天気の秋晴れで、窓という窓を開け放ち乾燥した空気を取り込み、また濡れた材料は外で乾燥です。

さて雨に濡れていなくても湿潤な環境は工場内にストックした板にも目に見えぬ影響を与えています。
キャビネットの鏡板を木取るために帯ノコで幅広の厚板を半分に割こうとしましたが、果たして見事に反り返ってしまうのです。空気の乾いた安定した環境であれば、このようなことはありません。
湿潤な環境に晒され、板の表面と内部の含水率の平衡がバランスを崩してしまったからです。

このような場合どのようにすればよいのでしょうか。反ってしまったらあきらめるしかないのでしょうか。そんなことでは材料のロスばかり出てしまいます。
人為的に木の可塑性を利用するのです。どうするかといいますと、外部から熱を加えながら強制的に反りを修正させる。あるいはじっくりと太陽熱の力を借りるなどして含水率の平衡を取り戻してやるのです。
冬であれば薪ストーブでゆっくりと戻してやればよいでしょう。まだストーブは出ていないのでガスコンロなどで乾いた熱気を供給してやることになりますが、この方法は薪ストーブの力ほどは期待できません。恐らくは薪ストーブならではの遠赤外線をガスストーブでは期待できないからなのでしょう。

強制的な木の反りの修正の方につきましては項を改めて述べねばならないかも知れません。

さて先のテキストはApple社の経営理念と木工家のスタンスについて、その前置きを記したところで終了してしまったので、少し考えてみます。

以前この [Monologue] のなかで木工家はバカ?、といった考察をさせていただいことがありましたが、今回もこの考察を進めるといった内容のものになるでしょう。

木工家具という生産現場というものは、戦前までは町中の木工所が受注生産するという家庭内工業生産のシステムで賄っていたと考えられるでしょう。もちろん既に中規模の生産メーカーというものも勃興しつつあったでしょうし、一方では江戸指物、京指物に見られるような伝統的木工も盛んであったようです。
これが戦後の大衆消費社会の到来と共に、大きな資本投入、大型機械の導入を通して各地に一大産業システムができあがり、まさに家具も近代工業生産品として大衆からの消費欲望に応えていくようになっていったのでした。

当然のようにこのメーカー生産の下では、生産システムが細かく分業化されていったのです。
社会はどんな家具を求めているのかを調査研究する部門。この検討にに基づき社内外のデザイナーなどと新商品が構想され生産計画打ち立てられる。
いよいよ具体的商品(まさに消費対象としての商品です)として図面化され工場へ回される。
工場長は手際よく木取りを指示し、加工へと進める。
加工担当の班長は職人とともにデジタル制御の機械を操作し(ここでは職人とは呼ばずにオペレーターなどと称されるのでしょうか)、組み立てへと進める。
これらの一部工程は外部の下請け、孫請けの部材加工の工場へ回されることも多いでしょう。組上がった生地は塗装工場へと搬送され(あるいは別の下請けへと回され)美しくお化粧し、最後の金具付けなどのフィッテイング作業などを経て完成です。
それぞれ専門分野のエキスパート、熟練工らが与えられた条件の下で淡々と仕事をこなしていきます。
メーカーに課せられた品質の追求、生産性の向上は日々より高いものを要求され、高い品質のものが市場へと投下されていくのです。

日本における家具メーカーも様々な経営理念があることでしょう。
なかには大きなメーカーで著名なデザイナーの設計したものを永年作り続けている商品もあるでしょう。こうしたところではひとつの商品を作るため、それに特化した機械の開発、ジグの開発が促進され、より品質、生産性は高まっていくことでしょう。

北欧家具のなかでもかの有名なYチェアの生産現場のビデオを見ましたときに、個々の加工工程に専用機械が開発され、これによって品質と生産性が高められているということを再認識させられたことがありました。
当地静岡では残念ながら中堅のメーカーがひしめいているものの、こうした歴史的に残るようなプロパー商品があることなど寡聞にして存じ上げません。
毎年数回の「家具メッセ」と称する新作展示会を観る機会もありますが、確かにステキな家具を開発されているようですが、ネコの眼のごとく、ガラリと作風が変わって驚くことは少なくはないのです。まさにトレンドを追って四苦八苦している様子なのですね。
かつて記したように、メーカーのブランドカラーというものが見えてこないと言い換えることもできるでしょう。

さて木工家という生業のスタンスですが、これも様々なスタイルがあるでしょう。一括りはできません。同業の木工家も驚くような高い価格設定で肩で風を切る元気な売れっ子木工家。高品質なものを廉価な価格設定でがんばるも生活が成り行かないほどの無名木工家(ボクも含めて、こちらのほうが圧倒的に多数でしょうか)。またどう見ても市場から評価されるのは難しいかな、と考えてしまうようなものを作る自称木工家。etc 様々です。
しかしいずれも材料探しから、デザイン、制作、時には販売まで全てを自分でやってしまおうという意気に関しては共通すると思われます。

現代においてはこの特異とも思える生産スタイルはどのような特徴があるでしょうか。
メーカー生産を基盤とする近代工業生産システムは、やはりモノ造りにおけるある種の人間存在の本質(モノを生み出す喜び、モノヅクリにおける自己表現、などといった)を一部捨て去ってしまうところからスタートせざるを得ませんでした。個々の現場でこれらを追求していたらたちどころに生産ラインは動脈硬化を生起させてしまうことでしょう。
労働現場では多くのゼネラルエンジニアなど要求されません。与えられた職域で最大の貢献をしてくれさえすれば良いからです。
したがってこうした職人の生き甲斐といったことは外部に求めざるを得なくなります。娯楽であったり仲間との飲酒であったり、マイホームパパであったりすることでしょう。

対し木工家は生き方全てが仕事に深く関わらざるを得ません。いえむしろそれを所与の条件として生活が営まれます。
いかに良い作品を作るのか、そのために必要とすることは最大限追求されます。様々な美術品を観覧したり、美術書を検索したり、あるいは各国の民芸品を研究したり、また芸術以外の社会的事象にも目を向け、1社会人として、あるいは一人の人間としてより自己研鑽を要求されることでしょう。

また従って木工家具というものもやはりその作品は作家そのものの投影であるという言い方もできるかもしれません。
これが市場でどのような評価を受けるかは別にしまして、ともかくも【作品=人】なのです。

実は自分の作った過去の家具を見ることがありますが、とても恥ずかしくて目を背けるようなことも一度や二度ではありません。これは家具そのものレベル、品質であるとともに、自分という人間の過去の姿そのものであることに気づくとき顔から火が出るような恥じらいを覚えてしまいます。

このように木工家というものは全人格を賭けて社会に恥を晒して生きてる存在でもあるのです。

さてしかしこうした内在的な特徴に留まらず、木工家が作る家具はやはりメーカーが生産するものと明らかに違うところがあります。
材料の選定を考えてみましても、氏素性が明確なものを用い、また与えられた材料の条件の下で最適な木取りをするようにしています。これは決して銘木ばかり用いるということではありません。その作品に最もふさわしい木取りをしようと最大限追求することで、より品質の高いモノヅクリの基本的要素が保証されるのです。
かつてJ・クレノフ氏というカリフォルニア在住の著名な木工家の来日セミナーに参加させていただいた時に感銘を受けた指導内容のひとつがこの「木取りの重要性」でした。
当たり前のことだろうと、お思いかも知れませんが、有機素材ならではの固有の表情を如何に洞察力豊かに読み込むかによって、その作品の価値が大きく規定されるということは常に銘記されねばならない事柄なのです。

対し製造メーカーでは木はあくまでも工業生産に使われる他の素材同様、マテリアルであることで事足りるのです。杢がどうであれ、木味がどうであれ、必要なサイズで適切な品質であれば良いだけです。あえていえば木目であるとか、木の表情であるとかはむしろ邪魔な属性でしかありません。これは合板が基本素材であるところに象徴されていることで明らかでしょう。

次に加工工程にあっては、木工家は日本の伝統的木工技術体系から最もふさわしい技法が選択されるでしょう。
木工という工芸は他のカテゴリーのものと異なる特徴として、膨大とも言える技術体系の蓄積をベースにしなければ始まらないということがあるうように思えます。
これは有機素材の木という素材を取り扱うことの困難性に起因します。
全く技術のないところで、いきなり造形力を発揮しようと考えましても、自然環境の及ぼす力の前に屈服せざるを得ないのではないでしょうか。
先人が残してくれた膨大な木工技術体系を自家薬籠中のものとすることで、より造形の世界は拡がるでしょうし、もちろん耐久性の高い高品質な木工作品も制作できるのです。

一方、メーカーでは如何に生産性を高めるかに力点がありますので、その仕口はシンプルで本来の技法から較べれば換骨奪胎されたものになることでしょう。
もちろん良質なものを生産しているメーカーも少なくはありませんが、残念ながら多くのメーカーは生産性追求のみに力点が置かれているように見受けられます。デザイナーと工場長がもう少し検討すればもっと美しく理に叶った仕口を作るための機械生産システムを開発でき、良質で廉価な商品ができるはずです。
まさにプロダクトならではの美しさを追求できるはずなのですが、残念ながらそのような商品はあまり多くはないの実体でしょう。

少し冗長の嫌いが出てきましたのでこれ位にしますが、その他の全ての工程で木工家と製造メーカーのアプローチは異なっているものと考えられます。
ボクの「アート&クラフト様式に基づいた、手仕事としての木工の復権」(工房 悠パンフレットより)という指標は、近代的工業生産のなかで失われてしまった健康的で、また人間的なモノヅクリの精神を蘇らせようとするものなのです。

さて先に述べたようにApple社の経営理念は「ハード、ソフト両方を開発、生産、販売している」ことにその特徴があるのですが、そのことによって他のPCメーカーには真似の出来ない斬新でユニークなハードとソフトを開発、商品化しています。

このところ爆発的な人気と売り上げを誇っている iPod (MP3再生プレーヤー)ですが、これはプレーヤーそのもののハードの秀逸さ(デザイン、操作性、サイズなど)もさることながら、これを司るアプリケーション iTunes の機能性、拡張性、操作性などが優れていて、同時にまたこのソフトとハードの連携のシームレスさが優れているというところに人気の秘密があると思われます。

この iPod という小さなボディーのなかにApple社の他のPCメーカーには無い企業的特異性が象徴されているとい言えば、より理解しやすいかもしれません。

もちろんハンドメードを旨とする木工家の生産システムと、最先端のPC生産システムなど較べるべくもない無茶な対比なのですが、ここであえてアナロジーしようというのは、スティーブ・ジョブズ氏というカリスマ的CEOの経営戦略の下、基本ソフト、アプリケーションソフトの開発から、ハードの生産まで一貫した生産システムを頑ななまでに押し進めるApple社と、ひとりの木工家が、デザインから生産、販売まで一貫したシステムでものづくりを進めるところに、そうした精神の類似を見るからです。

世界的にはApple社のMacの占めるシェアはわずか5%に満たないなどと揶揄される昨今ですが(以前、国内でのシェアは20〜30%ほどあったのだが)、ボクたちだって、何も万人の下に家具を届けようなどと考えてなどいない。本当にクォリティーの高い商品を欲する人たちへ、例えそれが5%に満たない人たちであったとしても、世にインパクトを与えることは可能なのです。
木工家の作る家具を使う喜びと満足、あるいはまた資源を無駄にするものではない、永い時間に渡って使い続けられる家具を作り続けることに、これまでの使い捨て文化としての大衆消費財とは異質なものづくりに、社会的有益性も認められ得るのではないでしょうか。

もちろんApple社の iPod のブレークのようなヒット商品を作れなければ、ボクたちの経営も低迷の一途をたどる運命であることも確かなのですがね。

昨夕、中越地方で震度6強の大きな地震がありました。今朝のTV画像を見るだけでも、報道されている被害規模も拡大されるよいうな気配がします。
被災された人々にお見舞い申し上げます。

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