Monologue 2004

 木工教師と人間の尊厳 ー「息子のまなざし」
May. 1.2004

映画「息子のまなざし」を観た。
昨年末国内封切り時(渋谷ユーロスペース)にぜひ観たいと考えていたものの、残念ながら繁忙のなかそのために上京することも叶わず断念していたものの、静岡市内のミニシアターで上映されさっそく観てきた。
決して大作というものでもなく、小品に分類されるものであろうが、深く心に問いかけるものだった。

2002年 仏、ベルギー作品。ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督最新作
カンヌ国際映画祭主演男優賞受賞

はじめに

昨今犯罪被害者への司法の場での権利がいろいろ取りざたされることも多くなってきている一方、メディアの場での犯罪当事者の情報がこれまでの人権擁護の通念を越えて侵犯されることが問題になってきていることも事実だ。
それに遺された遺族などからの犯罪者本人はもとより、その家族などへの報復的とも見える攻撃にも違和感を覚えるということもあり、無神論者としてはいかにこの問題を捉えるべきなのか困惑することになる。

ボクは結論的に言えば、「赦す」ということへ限りなく近いところへ身を置くことをしたいという倫理的願望がある。
「人を憎まず、罪を憎む」という近代法の概念に立ちたいからなのだが、果たしていざ自分の身に降りかかったときにこの立場に立つことができるであろうか自信があるわけではない。しかし応報的アプローチでは、一時的に恨みを果たしたとしても真の意味での癒しにはなり得ないことは明らかであろうし、何ら本質的な問題解決にはならない以上、やはり「赦す」という立場に立つことによってはじめて犯罪被害から双方が立ち直ることの最初の1歩が歩み出せるのではないかと考えたいのだ

この映画「息子のまなざし」はこの妄想のようにも思える願望を具体的パースペクティブにおいて指し示してくれたようで大変興味深く考えさせてくれた。    

ストーリーとその背景

主人公オリヴィエが大工仕事を教えている職業訓練所に、ある日少年フランシスが入校してくる。最初は手一杯だからと断るも結局受け入れることになる。このあたりの展開は説明的なシーンも回想場面もいっさい排除されているので理解しにくいが、後にこの少年が主人公の息子を殺害した犯人であることが明かされることになる。
オリヴィエはこの少年をストーカーのごとくに追いかけ回し、ついにはアパートに侵入しそのベッドに横たわってみたりする。
少年とオリヴィエは夜のホットドックスタンドで出会い、少年はオリヴィエの距離目測判断の的確さ(ボクたち木工などの職人にはこのような資質が自然と備わるものだが)に驚き、尊敬の念を抱くことになる。

一方それを知った離婚後再婚を間近にした元の妻は当然のように取り乱しなじる。「息子を殺した人間に対し誰もそんなことしない。どうして受け入れるの?」元夫の答えは「なぜだか分からない」その後少年と車に一緒にいる場面に遭遇し、この元妻は錯乱の余り失神する。

訓練所での木工技能訓練が淡々とはじまり、尊敬する教師に付き従い、少年もこれに意気込み励む。
週末にオリヴィエは少年を遠方の製材所へ材木を入手するための旅の同行に誘う。彼は素直に同意する。

     

そしてラストシーンへと向かう。

材木入手への車中、オリヴィエはフランシスに何故少年院に入れられたのかを尋ねる。口を濁すフランシス。途中立ち寄ったカフェで後見人になって欲しいと依頼するフランシス。

更に何をやらかしたのか詰問するオリヴィエ。「後見人になるには知っておく必要がある」と迫る。子供を殺してしまったことを告げるフランシス。
材木置き場で作業も終わりかけた頃、「お前が殺したのは俺の息子だ」と明かす。その場を逃げるフランシス、追いかけるオリヴィエ。ついに捕まえて首を絞めようとするオリヴィエだが、その手を放し、解放する。

しばらくあって、一人材木を積み込むオリヴィエのところへとフランシスは戻ってきて手伝おうとする。
顔を見合わせながら、オリヴィエは無言でこれを受け入れる。そして突然ここで映像は断ち切られ、暗転、クレジットに切り替わってしまう。

特徴的なカメラワーク

実はこの監督の映画は初見なのだが、前作(第4作『ロゼッタ』ではカンヌ国際映画祭でパルムドール大賞を受賞)でも同様であったようだが、いわゆる全編ハンドカメラでの撮影が大きな特徴だ。
ボクの妻は別の日時に観たのだが、このカメラワークに酔ってしまい、気持ち悪くなりほとんど観られなかったようだ。

観客はオリヴィエの肩越しに構えたカメラから彼の目線に限りなく近くで追体験させられる。まるでドキュメンタリーフィルムにような感覚だ。しかし各シーンのテイク数は平均20テイクということで完璧ともいえる演出プランのもと作り込まれているようだ。

「復讐」を越えて

さてこの映画のテーマである犯罪被害者家族と犯罪者との関わり、いかに受け入れるかということについて。

この映画の企画は1993年に英国で実際起きた事件、二人の10才の少年が2才の子を惨殺したジェームス・バルジャー事件からのインスピレーションを受けてのことであったようだ。この事件はその後の少年事件の扱い(実名報道など)に論議を呼んだが、いわゆる神戸連続児童殺傷事件時にも比較の対象とされた。
ギリシャ悲劇の時代から、こうした被害者身内による「復讐」という問題が時代を超えて人間存在の普遍的テーマであるようだ。

グルデンヌ兄弟監督は、この「復讐」という避けがたい被害者心理を逆転し、これを受け入れるという倫理的立場に立つことの可能性を提示してきていると考えるべきだろう。
もちろん神の赦しとは遠い現実的世界での当事者であることから、この立脚点は決して安易に作れるものではなく、逡巡と迷い、葛藤と苦悩があることは明らか。
普通の生活者であろうオリヴィエにとって、この寛容の精神はどこからくるものなのかをオリヴィエの心理的葛藤を観客に追体験させることで提示しているのだ。
「後見人になってもらいたい」という要望に子を殺された者がいかに受け入れるか、果たしてオリヴィエはラストシーンの展開のなかで既に少年の「父親」として生きていこうと密かに覚悟をしていることが読みとれる。人間存在の尊厳をこの厳つい男にみることができるのだ。

さてこうしたプロットをばかげたおとぎばなしとして一蹴するか、その可能性に未来を賭けるか、人はさまざまな感想を持つであろうし、例えこれを受け入れようと考えたとしても、いざ具体的に自分にこのような事件が降りかかったとき、どう対処するかは難しい。
しかし冒頭述べたように、この「息子のまなざし」の監督のメッセージは強くボクの心に響くし、「赦し」の可能性に未来を託したいと考える立場に立ちたいと思う。

キリスト教的倫理と、仏教的倫理感では大きく異なるということもあるかもしれない。(日本では幕藩体制崩壊後、明治初年から始まった天皇制体制の整備過程での廃仏毀釈運動のなかで実質的に仏教的倫理は崩壊してしまったと見るべきかも知れない)

しかしこの映画では残念ながらこの宗教的視点でのアプローチは全く触れられていないものであったし、そうであればむしろ近代法概念と、近代社会の倫理的想像力の豊かさこそ確認すべきなのであろうと思う。

       

訓練校教師という主人公のプロット

最後に主人公が木工職人の訓練校教師という演出プランについて。

新聞の映画評で関心を持った最初の動機は正直いえば、職業柄についてであった。
このテーマを描くにあたってはこの職業的背景は必須の要件ではなかったかもしれないが、しかし木工職人という強靱な体躯に宿る苦悩と繊細な精神は主人公オリヴィエ・グルメのキャラクターと合わせ、欠かせない重要な設定だったし、距離目測判断の的確さは熟練技を尊厳すべきものとして象徴的に用いられてもいた。

少年が最後にオリヴィエに赦しを乞い、近づくシーンはこの尊厳すべき対象であってはじめて可能であったろうことを考えればこのプロットはやはり重要なものであったのだ。

監督・脚本 ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
acteur 主人公オリヴィエ : オリヴィエ・グルメ
少年フランシス : モルガン・マリンヌ
元の妻マガリ : イザベラ・スパール
受 賞 カンヌ国際映画祭
主演男優賞・エキュメニック賞特別賞

ファジル国際映画祭
グランプリ・主演男優賞

ベルギー・アカデミー
最優秀作品賞・監督賞・主演男優賞

Le Fils/2002年/ベルギー=フランス/103分

今後全国、順次公開のようですので、ぜひご覧になってください。
詳細はこちらから >>「息子のまなざし」
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