「建築生物学」という言葉が著書には何度も出てくる。この「建築生物学」という概念については、恥ずかしながら初めて聞くことばで十分に理解しているわけではないが、そのいわんとすることはは理解できるように思う。
人類の歴史の中にあって、近代技術の自然への関わりというものは、人智を越えたところの自然現象をいかに技術によって克服するかというアプローチであったように思う。まさに欧米を中心とする近代合理主義の根幹をなす思考であったろう。明治以来日本においてもいち早くキャッチアップすべくひた走ってきたのだった。
今日、私たちホモサピエンスとしてのヒトが直面している課題は多岐にわたる。世界的ベストセラーになった「奪われし未来」(翔泳社 刊)の指摘を待つまでもなく、世界市場に氾濫している合成化学物質は約10万種類あるといわれており、これがさまざまな環境ホルモン問題として「種の保存」にまで関わる脅威をもたらしていることが検証されつつあることは論議を待たないようだ。
1992年リオでの環境サミットで打ち出された「アジェンダ21」、あるいは京都サミット、での決議も超大国の不支持でこれらの実効は疑問視されつつある現状を見ると暗澹としてしまうのも事実であろうが、しかしそれだけにいよいよ「持続可能な開発」(Sustainable Development)の課題に基づいた生産スタイルと生活スタイルのあり方は私たちひとりひとりにとって、喫緊の問題といえよう。
- 「技術にとっては、自然は外部にある。第一の技術では自然を克服する。第二の技術は人間と自然の距離をとる。この距離のなかで、人間と自然の新しい関係を考えることが第二の技術の目標になる」(ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読 [多木浩二] )
現代社会に生き、生産活動をする我々の緊急の課題はこの自然と技術の距離のとりかたについてしっかりとした方向性を構築することであろう。
「サスティナブル」という思考はこうした脈略から提言されていることのひとつだ。
「建築生物学」という概念も同様にこのコンテクストのなかで考えることができるであろう。
地球環境を破壊するから、木を伐採することは避けよう。という方向ではなく、トーマ氏の手法にみられるような無垢の木材を積極的にかつ合目的的に活用すること。針葉樹林帯だけのいびつな森林生態系から、本来の森の姿、広葉樹林と針葉樹林の混合林を増やし、もっともっと森へと人間が入り、森を生き返らせること。
有限な有機素材だからこそ、森全体を喪失させるような破壊行為にも似た伐採で合板のように本来自然界になかった化学物質で構成され、ヒトへのホルモン作用攪乱物質として影響を与え、また建材としての耐久性としても数十年で損壊するようなものではなく、ヒトとともに数千年にわたって私たちの身近に寄り添ってきた素材、また数百年は持つであろう、無垢の木材を適切に使うことこそ大切なことなのでないだろうか。
しかしまた「有限な有機素材」という制約性は留保すべき捉え方ではないだろうか。
化学合成物質こそ石油資源からの賜り物であればまさに有限な資源といわねばならない。ヒトがこれを活用できるのは、わずか数百年という、地球とヒトの遠大な歴史の流れからすればほんのまばたきほどのものでしかない、数世代後には収奪し終えてしまう運命の資源だ。比して「木」は全く再生可能な資源であり、いよいよ森を豊かによみがえらせ、積極的活用をせねばならないだろう。