デザイナーと職人の社会的制度
同じ木工家具を作るにしても、デザイナーが企画設計し、この指示を受けて職人が制作するケース、あるいは木工職人が自らデザイン企画して制作にもあたるというケース、またそれらの間の責任分担範囲が混然としているもの、と様々なケースがある。
一般に量産メーカーなどの生産システムは明らかに先のケースがほとんどだ。専属のデザイナーを抱えたり、フリーランスのデザイナーと契約してデザインしてもらうことも多いだろう。
一方独立経営の木工職人は、デザイナーの依頼で試作したり、あるロット数の制作をしたりすることで、生業とする。
また同じ木工職人でも、求めに応じて自身がデザインして制作販売することもあるだろう。
ここで取り上げるのは、こうしたデザイナーと職人の関係性についてだ。
ボクの場合、量産家具産地に立地するということから、独立自営を始めた頃はデザイナーの依頼を受けて試作するという貴重な経験をさせていただく機会を得たことがある。
静岡にはフリーランスのデザイナーが40人ほどいるといわれる。出自はさまざまであろうが、一般に美術系の大学を経て、デザイン事務所で研鑽を積み、独立するというケースが多いと考えられる。静岡という家具産地のデザイナーだけあって木という素材への理解と、家具という構造物への認識も高いということは了解できるであろう。
しかし同じ家具作りへのアプローチでもデザイナーのそれと、木工家のそれとではかなり違いがあるということに気づかされることも多い。
一般にデザイナーはクライアントからの要請を受け、制作目的とする家具の造形的美の価値基準からアプローチしていくのはいうまでもない。
ここではもちろんその素材が木であるということにも一定配慮はされるだろう。
しかしデザイナーがその素材である木への配慮をするとはいっても、工業生産物のマテリアルのひとつとして、他の鉄、非鉄金属、あるいはプラスティック素材などと並列化されたなかでの素材であるにしか過ぎないという水準であろう。
しかし木工家は木工という限定されたカテゴリーのなかで、ある固有の素材(木材)に規定された構造的特性を念頭に置いた造形的可能性を追求するという性向があることは自明だ。
従ってデザイナーの要求に見事に答えてやることもできれば、逆にそんなことは木工ではすべきではないと頑として譲らないといったこともあるだろう。
もちろん、この両者が有機的なイコールパートナーとしての関係性が構築できていれば、それぞれの領域における責任を果たし、望みうる以上の結果を生み出すことも可能だ。またそうありたいものだ。
しかし残念ながら現実はそのようにスムースに事は運ばない。
概してデザイナーと、職人とではイコールパートナーで結び合うというよりも、ある種のヒエラルキーで支配、被支配されるということになるから事は面倒になる。
以前スェーデンの木工家と、家具デザイナー二人の講演会が地元で開催され参加させていただいたことがあるが、そこでのひとこま。
質疑応答のコーナーがあり、参加者のほとんどがデザイナーだったこともあって、他に見あたらなかった職人としてのボクに指名があった。
「北欧では歴史的にも、現在も名作家具を数多く生み出しているが、ここにはデザイナーと家具職人のパートナーシップが有機的に結びついていると考えられる。翻って日本ではなかなか両者の蜜月は永く続かない。これをどのように考えるか?」とっさの指名だったので、こんな質問を発してしまった。
これに対する回答は意外なものだった。曰く「スエーデンでもデザイナーは職人をバカだと思ってる・・・」
これには会場一同苦笑い。
この木工家の回答は親日家ということで、達者な日本語でのものだ。決して通訳の意訳などではない。
やっぱり、というよりもエェッ、どうして・・・、という感であった。
イコールパートナーなどというのは望むべくもない幻想。ということなのであろうか。
しかし例えそうだとしても、やはり、スエーデン、デンマークなどにおけるデザイナーと職人の関係性と、日本のそれとでは大きな彼我の違いがあるだろうと考えられる。
これは家具生産を含め、18c以来の工業的生産システムの勃興と発展の歴史的背景が大きく異なり、また日本における近代化の特異な跛行的なところが主たる要因なのでは、というのは私見だ。
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欧州のマイスター制度
ところで欧州にはマイスターという制度が歴史的に社会の中で堅固に息づいていることはよく知られたことだ。
様々な工芸、建築の世界でマイスター制度というものがあり、これは社会的にも広く認められた尊敬を集める職能だ。
日本では残念ながらこうした制度はない。昔Oak○○という木工集団が、工芸大学を立ち上げ、ここの指導教官を「マイスター○○」などと称していたことを思い出すが、これはあくまでも社会的に認定されたそれではなく、学内での呼称にすぎなかったであろう。
やはり日本では「職人」とい呼称が一般的だ。以前永六輔氏の著書「職人」(岩波新書)が大いに売れたことがあったが、これは職人へのある種の憧憬と、過去の遺物的存在への懐古であろうか。
ボクの親方に当たる人はアルコールが入ると「昔(東京オリンピックの頃だろう)は職人は街の中を肩で風切って歩いたものだ」などと聞かされた。そんな時代もあったのだろう。
でもやはり欧州の職人、マイスターと日本の職人とは大きな彼我の差があることは残念ながら明白だ。
日本の職人は技能に優れていれば一応社会的も認められるだろうし、それで十分自己充足することもできるだろう。しかしマイスター制度におけるそれは、単に技能のみが優れているのではなく、弟子をしっかり教育できる能力、経理などを含めた起業経営の知識、デザイン的素養、等々、まさにゼネラルマネージャーとしてのそれでなければならないということだ。ここに絶対的ともいって良い違いが存する。従ってその結果社会的な評価の違いが生まれてくるのも必然といえようか。
まぁボクなどはバカな職人の端っこでウダウダしているものの一人に過ぎないが、ものづくりに責任もって携わる以上、使い手に恥をかかせない、むしろ誇らしく受け取ってもらい、愛情もって使われるようなデザインと、高品質な木工品を提供せねばと考えている。
デザイナーという職域はまさに近代的大衆消費社会のものであるわけで、ものづくりの世界にアプリオリにあったわけではないのだ。従って木工家としては勇気と誇りを持ってもの作りの一翼を担っていかねばならないと考えている。
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木工へのアプローチの違い
ボクが木工のデザイン造形をする場合、まず必要とする構造、機能を優先させそれを満たしながら、加工対象とする素材、木の固有の表情、クセを最大限考慮し、最適と考えられる構成、デザインを考えていくというプロセスが一般的だ。
つまり全体的なプロポーションを描きながらも、そこではあくまでも木という素材ならではの固有の表情が持つ力を借りながら、これが生かされるような木取り(対象とする部材に、材木のどの部分を選択するかというプロセス)を最優先させる。ここでは全体的な表情とともに、個々のパーツでも、木目の表情、繊維の方向が、構造的堅牢度に合目的になっているか、あるいはよりデザイン的に優れた配置であるか、などと常にある種神経質なまでに考え抜く。何故ならばこの木取りのプロセスでその作品のクォリティーが決定づけられるといっても決して過言ではないからだ。
したがって素材の制約から、デザインそのものを変更するということなどは日常茶飯だ。
一方デザイナーは上述したように、いかにトレンドに合ったデザインで、いかに生産性を上げ、クライアント企業に利潤をもたらすか、という配慮が優先されるという制約下にある。したがってあくまでも木という素材は工業的マテリアルのひとつとしてのそれであり、木が持つ表情などという非近代的、非合理主義的要素はほとんど排除されねばならない。
また残念なことだが、ボクの数少ない経験からわかったこととして、家具デザイナーとはいっても木工の基本的な仕口をほとんど理解していないものがいるのも事実だ。
その結果、木の特性を無視した無茶な構造で構成されることにもなる。
制作の方法をめぐる打ち合わせの中で、こちらが異論を挟むと「職人はただだまってこちらが言うことだけ聞き、その通りにやりさえすればいい」などと激昂する人もいたが、これは論外としても、概して職人が深く内容に関与してくることを嫌うデザイナーがいることも事実その通りだろう。
あるいは木工家の社会的あり方そのものへルサンチマンをつのらせるかのように、「木工家などという非社会的存在?は認めがたい・・・」などと慨嘆するする人も見かける。
同じ木工家具を志向しながらも、こうした双方のあり方はいかにも不幸な関係ではないか。
既に述べてきたように、ここにはいくつかの故無しとはしない問題を孕んでいる。
デザイナーからすれば、「木のぬくもり」「手仕事」などというアプローチで、デザイン性のかけらも見られない審美眼を疑うような稚拙な木工家具が社会に排出されていることへの非難も決して理由のないことではない。生産性も省みない、ひとりよがりの「木工家」というイメージからは脱却されねばならないだろう。
また木工職人からすれば、木工の仕口もまともに理解しないデザイナーなどから指示されたくない、という思いも半分は正しい。「半分」というのは、仕口などの木工特有の考え方をデザイナーがアプリオリに知悉していることは望ましいこととはいえ、必須条件ではないからだ。この領域の問題は職人とのディスカッションのなかで解決されれば良いだろうし、むしろ後述するように木工職人には発想できない、デザイナーならではの創造性をこそ酌み取らねばならないだろう。
重要なことは仕口の方法を会得していることが必要条件の一つとすれば、何故その家具に他の何ものでもない木を素材とするのかという必然性こそ必須の要件なのではなかろうか。
ボクは木工の基礎的技能を職業訓練校で学んだ者だが、最近では美術系の大学などでデザインの素養を身につけ一端企業にデザイナーとして就職しながらも、自分で木工技能を修得すべく訓練校の門を叩く若者も少なくないようだ。これは木工技能の修得が残念ながら美大などのカリキュラムには十分にカバーしきれていないことによるものだ。
しかしこうした若者の志向はとても良いことであろう。
逆に木工職人がデザイン学を求めてアカデミックな機関の門を叩くことがもっと許容されるようにもなるべきだろう。
いきなり欧州のようなマイスター制度が日本に根付くとも思えないが、職人の意識改革を進める中から、デザイナーと共によりよい社会的尊厳を集めることは決して夢想ではないだろう。
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より良い関係を求めて
日本では人物への社会的評価というものが、実力よりも最終学歴とか、出自(日本社会に蔓延する「二世○○」の跋扈なども昨今の鼻白む思いの一つだが)とかに基準を置かれる傾向がある。それも決して絶対的に間違った基準ではないにしても、もっとニュートラルにその人の実績なり、客観的評価での力を見てもらいたいものだ。
幸いにして日本では欧米に較べ家具デザインの歴史は浅く、デザイナーと職人の関係も決して堅固なものとして見ることもないだろう。お互いの能力を評価しあい、補い合う関係性を切磋琢磨する中から築き上げていくべきだろう。
職人は木のスペシャリストであり、クライアント、デザイナーからのあらゆる要請に見事に応える資質、つまりは求める形状に最もふさわしく美しい板を選択し、最もふさわしい仕口で、堅牢に作り上げる能力を有しなければならない。時にはデザイナーに対しても、自らの責任において的確なアドバイスも必要となろう。
一方デザイナーは、構想力豊かに、クライアントの要請に最もふさわしいデザインを創作し、これを制作するための合目的的な構造を考え抜かねばならない。木工職人のアドバイスにも謙虚に耳を傾け、共通の目的を達成させるためのパートナーシップを積極的に築きあげるべく努力すべきだろう
また伝統的木工技能の蓄積を、量産システムのなかにおいても、古くさくめんどうくさいものとして排除されるのではなく、優れた木工家具の開発においてこそ、こうした先人が積み上げてきた技術的財産を有効に生かしたいものだ。
木工職人とデザイナーの関係性がより有機的なものに醸成されていくならば、日本の木工家具のクォリティーはより高くなり、世界に誇るべきものも多く生み出せるだろう。互いの資質の高度化と、木工家具製作への限りない夢を共有することでこのことは果たせるのではないだろうか。
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